台湾で【日本精神】を知る 2026|息子と歩いた、教科書に載らない絆の物語

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フィールドノート
歩いた土地の記憶と気づきについて、書き記します。2026年9月、アメリカシャスタの旅に出ました。2026年7月、台湾ツアー アップデート2024年8月、台湾ツアーに参加しました。

息子と台湾へGO!

2026年7月、早めの夏休みを取り12歳の息子を連れて台湾へ行ってきました。 息子にとっては、これが人生はじめての海外旅行。パスポートを取り、少し緊張した顔で出発です。

沖縄・那覇空港から台湾・桃園国際空港までLCCのピーチが就航しており、約1時間25~35分。距離が近いので、機内食がすぐ出てきます。息子はカップ麺を急いで食べた思い出が楽しかったようです。
ちなみに日本と台湾では時差がマイナス1時間あり、現地時間に時計を合わせると1時間が消えるので、25~30分ほどで到着した感じになります。

僕にとっては、2024年8月以来2度目の台湾ツアー。
前回の旅は【台湾で日本精神を知る】シリーズとして綴りましたが、今回はそのアップデート版です。

ツアーを企画してくれたのは、台湾出身の友人ジョー・リーさん。
旅のテーマは前回と同じ【LITPUN CHENGHIN(リップンチェンシン)】=日本精神を学ぶこと。

そして、現地集合のため桃園国際空港でツアーの仲間たちと合流しました。

バスの車内に響くジョーさんの解説、そして参加者一人ひとりの言葉。
耳を傾けていると、日本と台湾のあいだに流れる温かな歴史の糸が、今もしっかり結ばれていることに胸が熱くなります。

親子の絆、台湾と日本の絆、そして目には見えない絆。
今回は、その深さを実感する旅になりました。

九份(きゅうふん)の裏側に眠る、ゴールドラッシュの物語

世界中から観光客が訪れる九份。石畳の階段に赤提灯がゆれる景色は、一度見たら忘れられません。

ジブリの噂と、本当の街のルーツ

「あの映画のモデルでは?」という話は、今も語られています。
スタジオジブリとしては公式に否定していますが、宮崎駿監督がこの街を訪れていたという話は地元でもよく知られているそうです。

クリエイターの想像力をくすぐる空気が、この街にはあります。

でも、九份の本当の魅力は「映画みたい」というノスタルジーだけではありません。
そこには、日本統治時代から続く歴史のドラマが刻まれています。

阿妹茶樓(あはちゃや)の外観(2024年撮影)今回4度目の訪問になりました。
© 2001 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NDDTM(千と千尋の神隠し)より

金鉱に沸いた山の町

日本統治時代、九份一帯では藤田組などの民間企業によって金鉱の開発が進みました。
のちに台湾の人々にも採掘の権利が広がり、町は一気にゴールドラッシュに沸きます。

当時の九份は、ふもとの町よりはるかに豊かで映画館や料亭まで立ち並ぶ、にぎやかな鉱山町だったそうです。

日本人と台湾人の鉱夫が共に暮らし、共に働いたからこそ生まれた日本的な風情があったんですね。

忘れられた20年、そして復活へ

戦後、政権が変わり権利も移っていくなかで、かつての財閥や家族は没落していきます。
やがて金も掘り尽くされ、九份は約20年ものあいだ人々から忘れ去られた町になりました。

あの映画の冒頭、トンネルを抜けた先に広がる、誰もいない静かな町。まさにそのイメージと重なる「空白の時間」が、九份にはありました。

その後、台湾映画のロケ地として再び光が当たり、さらに世界的なアニメの記憶と重なったことで、九份は蘇ることになります。

今では日本だけでなく、韓国やヨーロッパなどから旅行者が集まる場所に。

険しい山道の先で、ゴールドラッシュの栄華と、時を超えてよみがえったノスタルジーに出会える九份。歴史を知ったうえで歩くと、同じ景色がまったく違って見えてきます。

「死して余栄あり」、芝山巌の六氏先生

台北・士林の芝山巌(しざんがん)で聞いたのは、日本精神の根っこともいえる【六氏先生(ろくしせんせい)】の物語でした。

六氏先生とは、日本統治がはじまったばかりの台湾で、最初の学校「芝山巌学堂(しざんがんがくどう)」を開き、そこで命を落とした6人の日本人教師のことです。

教育に人生をかけた、伊沢修二先生

先生たちを台湾へ連れてきたのは、初代の学務部長・伊沢修二さん。長野県高遠の出身で、東京師範学校(現・筑波大学)などで日本の近代教育の礎を築いた人物です。弟の伊沢多喜男さんも、のちに第10代台湾総督を務めています。

当時の台湾は、マラリアやペスト、天然痘が広がる過酷な土地。「台湾へ行けば病で倒れる」と言われるほどでした。さらに日本統治に反発する勢力による抵抗も各地で続き、決して安全な場所ではありませんでした。

そんな中で、伊沢さんは「この島を良くするには、まず教育だ」と考えたのです。

16歳で台湾語に出会った、平井数馬先生

6人のうち最年少は、熊本出身の平井数馬(ひらい かずま)先生。16歳で台湾へ渡り、17歳で亡くなりました。

熊本の名門・済々黌(せいせいこう)で中国語を学び、通訳として選ばれるほどの語学の天才でした。ところが台湾に来てみると「あれ、あまり通じない」。現地の多くの人が話していたのは、北京語ではなく台湾語だったのです。

そこで平井先生は台湾語を学び、会話書をまとめていきました。ジョン万次郎が英語の会話書をつくったように、16歳の青年が台湾語と日本語の橋渡しをしたのです。その積み重ねが、のちの台湾語辞典へとつながっていきます。

12歳の息子と、たった4つしか違わない。そう思うと、胸がぎゅっとなりました。

逃げなかった6人

1895年に開かれた芝山巌学堂。その翌年、1896年の元日に、武装した一団が学堂を襲いました。【芝山巌事件】です。

実は先生たちは、前日までに地元の人から「襲撃があるかもしれない。日本軍の駐屯所へ逃げたほうがいい」と知らされていたそうです。それでも、6人は逃げませんでした。

そのとき残したとされる言葉が「死して余栄あり」。たとえ命を落としても、その死には意味がある、という覚悟です。

「死んでしまったら何にもならないじゃないか」。当時の台湾の人々には、その想いがすぐには理解できなかったといいます。「これでもう日本の先生は来ないだろう」とも思われました。

ところが、現実は逆でした。6人の姿に心を動かされ、「教育こそが台湾に必要だ」という想いが広がり、さらに多くの教育者が海を渡ってきたのです。

話を聞きながら、吉田松陰の歌が浮かびました。

かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

危ないと分かっていても、行かずにはいられない。六氏先生の背中は、まさにこの言葉そのものでした。

六氏先生の慰霊碑にて

100年後に再建されたお墓

台湾の古い小学校の写真には、【至誠(しせい)】という言葉がよく写っているそうです。「至誠、神に通ず」。
お習字の時間に、壁いっぱいに貼られていたといいます。誠を尽くすことを、子どもたちに伝えていたのですね。

六氏先生のお墓が再建されたのは1995年、事件から100年目のこと。
一度も会ったことのない先生を、後輩の教え子たちが語り継いできたからこそでした。

芝山巌学堂の流れをくむ士林国民小学校を起点に、学校は台湾全土へと広がり、最初の教え子たちは、やがて台湾の近代化を支える人材になっていきました。

沖縄にもあった、海を越えた「学び」のバトン

六氏先生の話を聞きながら、沖縄に生まれ育った僕は、郷土の偉人を思い出していました。
琉球から江戸へ。日本の庶民教育に影響を与えた一冊の本の物語です。

18世紀初頭、琉球の儒学者・名護親方(なごうぇーかた)こと程順則(ていじゅんそく)は、中国で出会った教訓書『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を琉球に持ち帰りました。

その書物は薩摩藩を通じて八代将軍 徳川吉宗(暴れん坊将軍と言えばピンときますよね。実際は暴れん坊ではなく、創作。享保の改革、幕府の財政再建に努めました)に献上されます。
吉宗の命で荻生徂徠(おぎゅう そらい、儒学者、思想家、文献学者)が訓点を施し、室鳩巣(むろ きゅうそう、吉宗のブレーンとして政治や制度面を支えた人物)が、日本語に訳して『六諭衍義大意』として刊行されました。

親を敬い、年長者を尊び、地域の人々と仲良くし、正しい行いをする。

人としての基本を説いたこの本は、寺子屋などで庶民教育の教材として広く使われ、江戸時代の道徳教育に影響を与えました。

一人の琉球人が中国から持ち帰った書物が、海を越え、薩摩を経て江戸へ。
そして日本各地の子どもたちの学びへとつながっていったのです。

琉球から日本へ、そして日本から台湾へ。
「人を育てるのは教育だ」という想いは、時代も国境も越えて、バトンのように手渡されてきたのかもしれませんね。

偶然にも、六つの教え「六諭」と、六人の「六氏先生」。
同じ「六」の数字に、なんだか不思議なご縁を感じます。
「誠を尽くす」心に響いた言葉になりました。

駆逐艦「呉竹」と台湾に眠る記憶

バスの中でジョーさんが語ってくれたエピソードのひとつに、駆逐艦「呉竹(くれたけ)」のお話しです。

台湾とフィリピンのあいだに横たわるバシー海峡。
戦時中、ここで数えきれないほどの命が失われました。海に沈んだはずの日本兵のご遺体が台湾の海岸に流れ着いたとき、台湾の人々は自ら引き上げ、丁重に火葬し、日本へお骨を返そうと心を砕いてくれたそうです。

戦後70年の慰霊祭には、呉竹の艦長の息子さんの姿がありました。父の出征のとき「行かないで」と泣きじゃくった少年は、のちに佐賀でお坊さんとなり、台湾まで足を運んで父と戦没者の供養をされたといいます。

そして、アンパンマンの作者・やなせたかしさんの弟、千尋さんもこの呉竹に乗り、バシー海峡で命を落とした一人でした。

そうした記憶は、台湾最南端の地に建つ「潮音寺」などに、今も静かに眠っています。

過去の傷をただ風化させるのではなく、お互いの尊厳を守り、共に悼む。その事実を知るだけで、車窓に流れる台湾の風景が、より深く、愛おしく感じられてきました。

※3.11震災後、やなせたかしさんの作品「アンパンマンマーチ」が被災地を癒したことは記憶に新しいです。

災害のたびにつながる「恩返し」の連鎖

僕たちが台湾に特別な親しみを感じる理由。その背景には、時を超えて続く「恩返しのリレー」があります。

1999年9月21日、台湾中部を大地震が襲いました(921大地震)。現地に入った日本の救助隊は、亡くなった方を「物」ではなく最後まで一人の尊い人として扱い、痛みに寄り添いながら丁寧に向き合いました。その姿を、台湾の人々は忘れませんでした。

そして2011年、東日本大震災。 台湾は、世界でもいち早く、そして最大規模の支援を届けてくれました。国交がないにもかかわらず、政府や民間から巨額の義援金が集まります。

心を打たれるのは、その中身です。
街のサラリーマンやOLたちが「生活は楽じゃないけど、一食分なら」と、500円、1,000円を寄せ合ってくれた。その数は何百万人にものぼったといいます。
被災地の移動手段を心配して、大量の自転車を贈ってくれた企業もありました。
それは「他人事」ではなく、「痛みを分かち合う」行動そのものでした。

日本の救助隊が台湾の人に寄り添ったように、今度は台湾の人々が日本に寄り添ってくれた。お互いを想い合うこの絆の深さに、ただただ頭が下がります。

ホタルになって茶畑へ

旅の目的地のひとつ、日月潭(にちげつたん)。
美しい湖として知られるこの場所にも、日本人の足跡が残っています。

そのひとりが、この地で紅茶づくりの礎を築いた日本人技師・新井耕吉郎さんです。どんなに苦労しても諦めず、台湾の紅茶を育てる研究に人生を注ぎました。

終戦を迎えても、新井技師は日本へ帰ることを選びませんでした。
台湾の人たちに技術をしっかり引き継ぐため、現地に残ったのです。
けれど志半ばで、マラリアに倒れてしまいます。

生前、「死んだらホタルになって茶畑を見守る」と話していたという新井技師。
亡くなった日、いるはずのない季節に一匹のホタルが現れ、遺体のまわりを巡ったあと、まっすぐ茶畑の方へ飛んでいった――そんなエピソードが今も語り継がれています。

新井技師の志と紅茶の木は、地元の人々に大切に守られてきました。
1999年の大地震で観光が落ち込んだとき、その紅茶は「紅玉(台茶18号)」として花開き、若い世代の仕事を生み、復興を支える産業になったのです。

過去にまかれた誠意の種が、時を超えて花を咲かせる。
そんな奇跡のような実話があったんですね。

案内してくれたリョーさん、ジョーさん


神さまになった日本の若者と「利他の心」

台南市に、日本の軍人が神さまとして祀られている廟があります。
【飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう)】、正式名称は鎮安堂飛虎将軍廟です。

祀られているのは、1923年に茨城県水戸市で生まれた杉浦茂峰さん。海軍第二〇一航空隊の一員として、1944年の台湾沖航空戦に出撃しました。

1944年10月12日、台南上空で米軍機を迎え撃ちますが、被弾してしまいます。
燃える機体からすぐに脱出していれば、助かったかもしれません。
それでも杉浦さんは、眼下の村を巻き込まないよう、人のいない畑の方へ機体を向けてから墜落したと伝えられています。まだ20歳の若さでした。(出撃時は兵曹長、戦死後に少尉へ特進)

戦後、村では不思議な話が広がりました。
「白い帽子と服の若い人が畑を歩いていた」「若い海軍士官が夢枕に立った」――そんな人が何人も現れたのです。

村の人々は、自分たちを守ってくれた彼を「飛虎将軍」として祀り、今も彼が好きだった毎朝タバコと君が代で迎えています。

ジョーさんがこの話で伝えてくれたのは【利他(りた)】という言葉。
利他とは、自分よりも他の誰かの幸せを思って行動すること。
その反対が【利己(りこ)】、自分の利益や欲求だけを優先し、他者を顧みない生き方です。

沖縄に生きる僕が、思い出した事故

飛虎将軍の話を聞きながら、僕の頭に浮かんだのは、生まれ育った沖縄で起きたある事故でした。

1959年6月30日、米軍統治下の沖縄・石川(現うるま市)で起きた【宮森小学校米軍機墜落事故】です。
小学校に戦闘機が墜落し、児童11人を含む17人が亡くなり(のちに後遺症で1人が亡くなり18人)、200人以上が負傷しました。2025年公開の映画『宝島』でも描かれた出来事です。

墜落の直前、パイロットはパラシュートで脱出し、助かりました。そしてその責任が裁判で問われることはありませんでした。

映画を観て、当時の理不尽さと、犠牲になった方々の無念を思うと、言葉にならない気持ちになりました。

住民のいない畑へ向かって散った杉浦さんと、子どもたちのいる学校に機体が落ちた宮森の事故。どちらも空から落ちてきた戦闘機の話ですが、そこに残された人々の記憶はまったく違います。

「自分さえよければ」ではなく、「誰かのために」。
その一瞬の選択が、80年たった今も人の心を動かし続けている。
飛虎将軍廟は、そのことを教えてくれる場所でした。

映画『セデック・バレ』と霧社事件

旅の中では、温かな絆の話だけでなく、日本統治下の台湾で起きた悲しい出来事についても話を聞くことができました。

1930年、台湾中部の山あいの霧社(むしゃ)で、先住民族セデック族の人々が日本の統治に対して蜂起しました。【霧社事件】です。

運動会に集まっていた日本人が多数犠牲になり、その後の鎮圧で、セデック族の側にもさらに多くの命が失われました。

この出来事を描いたのが、台湾映画『セデック・バレ』(2011年、ウェイ・ダーション監督)。

先住民の人々にとって、日本の統治は誇りや暮らし、信仰を揺るがされる経験でもありました。一方で、日本の教育を受け、二つの世界のあいだで引き裂かれた先住民の若者たちもいました。

「日本精神」や「親日」という言葉だけでは語りきれない歴史が、台湾には確かにあります。光の部分を知るほど、その影の部分にも目を向けなければ、本当の意味で歴史を学んだことにはならない。そう感じました。

日本の視点と、先住民の視点。両方から、もう一度この歴史を学び直したいと思います。

それぞれの想い

今回のツアーには、それぞれの人生を背負った仲間たちが集まりました。

先祖や先人が遺してくれた平和への想いを、次の世代へつなぎたいと語る人。日台の歴史を深く知ることで、「日本人としての誇りと使命」を見つめ直している人。

ふだんの暮らしでは見過ごしてしまう「目に見えない根っこ」に意識を向けて、同じ景色を見て、同じ空気を感じる。それだけで、不思議と心が通い合っていきます。

バスの中で、上映してくれた台湾の先住民族・ブヌン族の子どもたちの歌声。重なり合うハーモニーに包まれながら、「今、こうして平和な時代に生きていること」の尊さを、あらためて噛みしめました。隣を見ると、息子もじっと耳を澄ませていました。

台湾を訪れると日本に出会える

台風が接近してくる中、ラッキーなことに台北方面へ向かう進路で、私達は台北から南下するルート。天氣にも恵まれました。

今回、台北や台中、高雄の街並みと観光地だけでは見えてこない、台湾の豊かな自然と、その奥に眠る歴史の重み。教科書で学ぶことのできない、実際にその土地に立ち、先人たちが紡いだ物語を知ることで、旅は僕たちの内側を大きく揺さぶってくれます。

日本と台湾には、ただの友好関係ではなく、家族や兄弟のような温かなつながりなのだと思います。
前回の旅で、歴史を知る事について歴史学者、アーノルド・J・トインビーの言葉で「自国の神話や民話、歴史を学ばなくなった民族は100年以内に必ず滅びる」という学びと「井の中の蛙、大海を知らず」と書きました。

2年ぶりの台湾は、その井戸の外にまだまだ広い海があることを、もう一度教えてくれました。
今回は、その海を息子と一緒に見ることができた。それが何よりの宝物です。

「次の世代に、争いを治め平安であたたかな世界をどう手渡していくか」

この旅は、そんな大切な問いと台湾から学ぶ日本を知ることで胸が熱くなるような誇らしさを、心に刻んでくれるかけがえのない時間になりました。

12歳の息子の心に、今回の台湾がどんな種をまいたのか。
それが芽を出す日を、楽しみに待ちたいと思います。

台湾総督府から派遣された土木技師の八田與一(はったよいち)の石像。烏山頭ダムにて
台湾高雄市にある鳳山紅毛港保安堂(ほうざんこうもうこうほあんどう)

長文となりましたが、お付き合いいただき頂き感謝!
ありがとうございます。ニフェーデービル。

2026.12.13 中村文昭 沖縄講演会 | 求め合うより与え合う
今日はちょっと嬉しいお知らせです。 2026年12月13日(日)に沖縄県浦添市で開かれる中村文昭さんの沖縄講演会に、ボランティアスタッフとして関わらせてもらっています。「中村文昭さんって誰?」「なんで台湾の話?」と思った方も、どうぞ最後まで…

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