台湾で【日本精神】を知る vol.2

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2024年8月、台湾人の友人の誘いで台湾を旅してきました。
旅のテーマは【日本精神を知る】ということ。友人から一通のメッセージを頂きました。

世界一の親日国台湾。
台湾は東日本大震災の際、世界で一番早く救援隊を派遣してくれ、また震災後に台湾だけで250億円(全世界から600億円強)という、世界一の義援金を出した国です。
『なぜ台湾は日本にこんなに心を寄せてくれるのか?』
また、台湾で使われていた「日本精神」とは、どんな意味のものか、このツアーでかつて台湾のために命をかけて尽くした多くの日本の先人たちの史跡を通じ、その息吹を感じ、次の日本を担っていく私たちの使命を学びたいと思います。

今回の旅は、特別な台湾ツアーになります。
井の中の蛙大海を知らずと言いますが、歴史はさまざまな視点からアプローチすると実像が見え、知らなかった事が分かります。

台湾新幹線に乗車して台北から中南部へ移動。
台湾は美味しい!と連想されるかも知れません。実は一人の日本人が台湾の食(農業)を豊かにするため尽力した人物がいました。その人物を知るため訪れた場所は台南のダムでした。

治水事業に命を捧げた日本人

日本統治時代、台湾は近代化整備が進み活気に満ちていた一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていました。

1930年に10年の歳月をかけて完成した、台南の烏山頭水庫(うさんとうダム)と呼ばれアメリカ土木学会から別名【八田ダム】と命名され、世界的にも注目され最近台湾では、世界遺産にする動きが進められています。


台湾総督府から派遣された土木技師の八田與一(はったよいち)の功績は完成当時、東洋一と謳わる巨大ダムで水路は総延長16,000㎞以上、地球をほぼ半周する距離です。

八田技師が生涯をかけて造り上げたダムは台湾の生活を豊かにしてくれました。当時の台湾中南部は不毛の台地を緑豊かな穀倉地帯に変えた偉業を成し遂げたことです。

八田技師は1920年から10年かけて現地の作業員や農民とコニュニケーションをとるために現地の言葉を覚え、日本と台湾の作業員と寝食を共にします。幾度にわたる大きな危機(引水トンネル作業に起きたガス爆発で多数の死傷者がでた事故)などを乗り越え、干ばつや洪水、塩害を解決する機能を備えたダムを完成させます。

教育の普及

ダムが完成する直前、関東大震災(1923年)があり、台湾開発予算捻出が厳しくなり多くの工事関係者を解雇する状況に陥りました。苦悩の末、解雇者リストをみたとき皆驚きました。なぜならそこには工事を進める上で有能な人材がたくさん入っていました。
理由を問われた八田技師は『能力在る者は他でもすぐに雇ってくれるだろうが、そうでもない者が再就職するにはなかなか難しい。
今、これらの者の首を切れば、家族ともども路頭に迷くことになる。だから、あえて惜しいと思われるものには辞めてもらう事にした。その穴埋めは残ったものを教育して補えばいい』
ダムをつくるとことともに有能な人材を育てることも行っていたのです。

この解雇により有能な人材が全台湾に送り出せれることになりました。100年、200年先、ダムを守る人を育てていかないと意味がないとわかっていたからです。そして八田技師の精神つまり『日本精神』をもった台湾人が活躍し台湾が大きくなるきっかけになったそうです。

哀しい結末

これまで台湾の歴史において支配者がやることには不信感しかありませんでした。はじめはいいことを言っていても、最終的に彼らが行ったことは重税を課し仲間同士で争わせ、生活を苦しくすること、日本統治当初は反抗などがありました。それが日本人が有言実行で行っていたダムをはじめとするインフラ整備、教育によって心から歓迎されていきました。そしてその頃、嘉儀農林高校(映画KANOが有名です)が甲子園に進み準優勝する快挙も達成します。

1942年、戦争が激しくなってくると軍の命令でフィリピンへ向かうため一時帰国。乗船した「大洋丸」がフィリピンへ向かう途中、米軍潜水艦の攻撃を受けて沈没。56歳で亡くなりました。
そして未亡人となった妻は1945年9月、夫が築いた烏山頭ダム放水口に身を投げました。

そのダムの園地には八田技師の功績と共に、ダム工事で犠牲になった日本人台湾人の石碑と銅像があり冥福を祈り時代背景やその人の想いを感じると思わず涙しました。

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