台湾で【日本精神】を知る vol.3

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2024年8月、台湾人の友人の誘いで台湾を旅してきました。
旅のテーマは【日本精神を知る】ということ。友人から一通のメッセージを頂きました。

世界一の親日国台湾。
台湾は東日本大震災の際、世界で一番早く救援隊を派遣してくれ、また震災後に台湾だけで250億円(全世界から600億円強)という、世界一の義援金を出した国です。
なぜ台湾は日本にこんなに心を寄せてくれるのか?
また、台湾で使われていた「日本精神」とは、どんな意味のものか、このツアーでかつて台湾のために命をかけて尽くした多くの日本の先人たちの史跡を通じ、その息吹を感じ、次の日本を担っていく私たちの使命を学びたいと思います。

今回の旅は、特別な台湾ツアーになります。
井の中の蛙大海を知らずと言いますが、歴史はさまざまな視点からアプローチすると実像が見え、知らなかった事が分かります。

日本統治時代の台湾について

東南アジアにおける植民地の形成(20世紀前半)©Shogakukanより引用

19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米列強による植民地が様々な地域に影を落としていました。東南アジア諸国はイギリスやフランス、オランダなどに植民地化が進められていました。

明治維新で開国した日本は、アジアよりひと足先に近代化が進みます。歴史の教科書に出て来る『下関条約』といわれる日清戦争で勝利したための講和条約で、日本は初めての海外領土を獲得したのが台湾でした。

日本統治が始まった1895年(明治28年)当時の台湾は、政情が不安定で日本による統治を甘受しませんでした。台湾へ派遣された日本軍や警察は戦闘に明け暮れることになり、治安維持が必要な状態。そんな中1896年元日に芝山巌事件(しざんがんじけん)が起こります。今回は、台北市士林区の芝山公園を訪れました。

六氏先生の物語

芝山公園には立派な芝山巌恵済宮があり、その敷地内に[六氏先生]の慰霊碑を詣でることができます。

1895年、初代台湾総督に就任した樺山資紀は「教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、全国から集めた7名の教育者が台湾へ渡りました。

そして、日本語伝習所を開き、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)と名付け、寺小屋のような学校が始まります。当時はここで日本語教育についての研究が行なわれ教科書の編纂も進められていたそうです。

同年の暮れになると台北の治安も悪く、芝山巌の周囲も抗日ゲリラなど出没。多くの日本人が狙われました。周辺の住人たちは教師たちに避難をすすめましたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったそうです。
そして1896年元日に事件は起こります。抗日ゲリラ100名余りに囲まれ6名の教員と用務員の小林清吉さんは虚しくも惨殺されました。

台湾に教育を伝えた6名は「六氏先生」と呼ばれ慰霊の碑が建立され、100年以上たった今でも命をかけて教育の必要性を説いた彼らの姿は語り継がれています。

楫取(かとり)道明(山口県、38歳、吉田松陰の甥)
関口長太郎(愛知県、37歳)
中島長吉(群馬県、25歳)
桂金太郎(東京府、27歳)
井原順之助(山口県、23歳)
平井数馬(熊本県、17歳)

その後、1月8日に総督府職員が教員たちの亡骸を収容するべく、当地に赴いているが、その際、教員たちの遺体は学堂近くに埋められていました。
これは壮絶な最期を不憫に思った住民たちによって埋葬されたそうです(平井数馬と小林清吉の遺体は見つからず)。
この事件は当時、大きく報じられ犠牲者は台湾で教育に生命を捧げた聖職者。襲ったのは悪辣を極めた匪賊の輩。新領土に命を捧げ、殉職した6名の教員は英雄となりました。

※一部引用(教育の聖地・芝山巌を歩く 片倉 佳史より


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